ライコウのブログ

あるキリスト者の個人ブログです。
二極化された世界構図を前に、我々人類は、いかに神様と向き合っていくべきか、思索を深めるきっかけになることを願って発信します。

撃沈2

その昔、プロテスタント教会に通っていた時期がありまして、牧師さまに教わったことがあります。
旧約聖書に出てくるバアル神など、当時の人々は、預言者が現れるまでは、その存在こそが唯一絶対の神様であると信じ、決して、カルトな悪魔崇拝者たちが成すように、「ははあ、親愛なるサタンさま~~」と、頭を垂れ、敬拝を捧げていたわけではありませんでした。
おそらく、現在のキリスト者と同じような、礼拝に近い感覚であったと思われます。


たとえ悪魔の頭であったとしても、それを知らない人々にとっては、あくまで、絶対者であり、神様であり、生贄など捧げれば、五穀豊穣などの恵みさえ受け、人々の生活の中心に君臨しつづけるのでした。


さて、そういう事情を知るものとしては、この「神様」という言葉は、大変扱いづらいもので、身内以外では、あまり使いたくありません。
どのようにでも解釈されてしまいますから。
そして、過剰に使用すると、非クリスチャンから、こう言われるのがオチかもしれません。
「おまえんとこの神様は、強え~~か」
ドラゴンボールの世界が展開します。


多少、意味合いは違いますが、かつて、森喜朗内閣総理大臣(2000年当時)が、神の国発言で、内閣退陣に追い込まれ、「神の国解散」と呼ぶことが定着してしまった経緯も存在し、突っ込んで考えると、本当に厄介。
(挨拶文の一部だけを意図的に抜き出して曲解する、マスコミの異常さは常に際立つ)


上記のことを踏まえ、多少警戒しながら、外向きに書いてきたつもりですが、そこで、これは、あくまで個人的な感覚からですが、そういうキリスト教文化が浸透しきれていない、日本の事情に鑑み、さらに、歴史マニアの私の感覚からすると、当時、信長や秀吉に仕えていた配下が、親しみと大いなる尊敬を込めて放っていた言葉、「親方さま」「親父(オヤジ)殿」という尊称は、神様を表わすのに、非常に、しっくり来るものがあり、あまり深い思慮もなく、私も使用させてもらっていましたが、個人的には呼び名がどうだろうが、あまり関心がありません。
ただ、発信もとはどこか分かりませんが、気になる方がおられるようで、そこは謙虚に反省し、改めようと考えているところですが、このブログを読まないという選択肢も、手かと思いますので、お知らせします。
たぶん、同じお仲間なら「神さま」で、問題ないのでしょうが。


こういう件があったので、少し方向は変えていきたいと思います。

撃沈

教会関係の内輪話です。
ご指摘があったので、そのことに少し触れます。
以前、書きましたが、このブログは外向きに発信しており、当初から、あまり教会員どうしの交流を想定していなかったため、ぼかす意味も含め、表現も多少、故意に変換してきました。


例えば、亨進さま
これは、自身の、アジア人特有のというか、古しき価値観からくるものなのですが、古来より、存命中の尊崇なる偉人に対しては、礼を失しないよう、決して、その名を直接的に表現してはならないと教えられ、通常、役職位名であったり、出身地名であったり、そういうところから呼称する場合が多く、そんなところの話です。


大河ドラマ「真田丸」は、ご存知でしょうか。
元服をすませると諱(いみな)と、烏帽子親によって仮名(けみょう)が与えられます。「真田」が苗字、「源次郎」が仮名、「信繁」が諱(いみな)


あの大将、織田信長に関しても、「信長様」と諱(いみな)で呼ぶことは大変失礼なことでした。
官位を持っていない武将の場合、仮名(けみょう)で呼ばれることが一般的で、諱で呼ばれることはまずなく、特に位の高い相手を諱で呼ぶことは失礼に当たり、よって、「信長様」と呼ぶことはまずありえません。
石田三成も、時代考証のしっかりした大河ドラマなどでは「治部少(じぶのしょう)」や「治部殿」と官途(かんど)で呼ばれていたし、やはり諱で呼ばれることはありませんでした。


三国誌など、中国の歴史に関心のある方は、さらによくご存知かと思いますが、諸葛亮孔明というのは日本人が考えた呼び名で、正しくは諸葛孔明。
直接姓+名で呼ぶことは失礼に当たります。
 姓:諸葛
 名:亮
 字:孔明


さらに、私が時々使用しておりました、「旦那」=檀那(だんな)という言葉。
本来は仏教用語らしいですが、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われているところから使用しましたが、もしかして、ニセ時代劇などの汚染された価値観で、とらえられてしまったか。


婉曲的表現で敬意を表していたのですが、たしかに現代的価値観からすると、「ペンシルバニアの旦那」では、そうとう俗っぽく映ってしまうので、「2代王」でよかったのかもしれませんが、そうなると、今度は一般の方が「なんじゃそれ~」みたいになるし、実は、私にとって大変悩ましい問題だったのです。
ネット世界では、実際のところ、「亨進様、誰それ~」の世界で、書いていると思ってますし、外向けというのは、そういうこと。


ともあれ、時は現代、反省も踏まえて、時流にあわせていこうと思います。
続編があります。


詳しくは下記を。ここからの引用です。


北イスラエル十部族の大移動

このタイトルは、本の紹介でもあります。
著者 大杉博 岡山県出身の宗教家で、主に日本の古代史を探求されている方です。


かつて、邪馬台国は〇〇にあった・・・とか、検証が難しいため、都市伝説レベルから脱しきれない様々な学説が、想像たくましく飛び交った時期もありましたが、この方の登場によって、だいぶ鳴りを潜めたのではないでしょうか。


魏志倭人伝などにも造詣が深く、そのため、それを無視した考古学者や、へたな文献史学者は太刀打ちできず撃沈。
現地調査のため徳島へ移住されるくらいですから、その熱意に及ぶ者は、この分野では、なかなかおりません。


さて、多くのキリスト教関係者や、サンクチュアリの方々も、度々この題材に触れる方がおられ、関心を持つのは、大変重要であり、喜ばしいことだと思っています。
これからも、ぜひ、お願いしたいと思います。


私も、この方の影響をだいぶ受けまして、結論から申し上げますと、全ての謎は、徳島県は剣山に集約されてくるのではないかと感じています。
この山へは、一度しか登っておりませんが、別件で、徳島の地には、何度も何度も足を運んでおり、霊界絡みなので、ここでは書きませんが、自身の中では、そうとうな数の謎が、この地を拠点に解かれ(教会長のおかげです)、中には、歴史に係わる幾多の謎の一部も含まれ、余計にそう感じるのです。


内容のほうは、一気に書くべき種類のものではなさそうなので、これから小出しに、暇をみつけては、感想なども交えていきたいと思ってますが、どうやら、神様と人類の壮大な歴史と、その足跡を辿ることになりそうです。


余談ですが、いつだったか、サンクチュアリブログの方が、空海の名を出しただけで、吼えている方がおり、短絡的な思考から、おそらく仏者は邪教くらいの認識なのでしょう、実は、わりと心を寄せていたカテゴリから愚か者の存在が湧出されたので、多少落胆してしまい、以降、家庭連合同様、サンクのブログにも注意喚起を迫られ、必要な方以外は、あまり熱心に見なくなってしまいましたが、ネットは広いので、あまり気にせず、こっちはこっちで行こうと思います。
なんせ、この本の著者や、幾多の歴史家が教示する如く、空海の存在は、日本の歴史の中で、そうとう重要なキーパーソンになっていると、感じていますから。