死の壁を砕け!

赤い侵略とグローバリズムから皇国日本と世界を守る

捏造歴史、WGIPからの解放。反キリスト軍ソロス、ディープステート、イエズス会、家庭連合(旧統一教会)、そして支那との戦い。

「兄弟」と書いて、何と読む

(コーヒータイム)
「本気」と書いて「マジ」と読む、では、「兄弟」と書いて・・・


人生行路というか、信仰生活について、少し触れていきたいと思います。
キリスト教世界では、イエス様が説いた「愛、許し、感謝」の生活が、日常で営まれるよう、数多くの、み言葉が存在し、教えられてきていると思いますが、50過ぎたおっさんが振り返って思うに、何かの欠落を感じるのです。


たしかに、出家したような立場の、例えば修道生活をしているような方のとっては、それが根本と考え、厳しい戒律の中におられる方もいるかと思いますが、べったり俗世間の只中にいる自分のような凡人からすると、例えば、周りが悪党同然の人間だったりしたときには、「愛、許し、感謝」のワードが、いかにハードルが高く、自分を追い込んでいくか、思い知らされていたりもします。
本当に、これで、この生き方でいいのだろうか・・・とか。


厳しい現実社会に接し、生き馬の目を抜くような、せちがない、この世を渡っていくに、本当にそれで生きていけるのだろうか・・・とか、何か間違っているのではないだろうか・・・とか、いろんなことを考えてしまうものです。
私は、キリスト教に接するようになり、これらの生き方は後天的に教わり、もちろん多くの恵みも頂いてきましたが、実は、それとは別に、魂のかなり深いところから、自らの内なる叫びとして、常に投げ込まれて来るものがありました。
「追え、許すな、破壊せよ」


ある意味、真逆のメッセージであるが故、常に前者と対立し、激しい葛藤が、心の中で展開されてきました。とくに「許し」の部分の存在ゆえ。
しかし、最近、わかってきました。
これらは決して、矛盾もしなければ、対立もしない。
むしろ、車の両輪のような存在なのだと、気づきます。


後者、全てのワードの前に「悪を・・・」とつければ分かりやすいですが、どうやら前者は、その言葉の特性ゆえ、悪の侵入を許してしまい、多くの信仰者でさえ、惑わされ続けてきたのではないでしょうか。
とりわけ、家庭連合の実情を見たとき、どうも悪魔に、逆手に取られた感が強いし、信仰生活の中に、それを、寛容に許してしまっている感もある。
そして、私の相棒が叫びます。


電流だ、怒れ!憎め! 許すな!
追え、破壊せよ、悪を憎む、怒りの電流だ!
もはや自分には、「兄弟」と書いて、「ザボーガー」としか読めないw
待ってろグローバリスト、俺の兄弟が、おまえを追い詰める
「電人ザボーガー GO!」



電人ザボーガーオープニング.avi