死の壁を砕け!

赤い侵略とグローバリズムから皇国日本と世界を守る

捏造歴史、WGIPからの解放。反キリスト軍ソロス、ディープステート、イエズス会、家庭連合(旧統一教会)、そして支那との戦い。

曲解だらけの安重根

安重根(アン・ジュングン)は1909年に、日本の初代内閣総理大臣で、初代韓国統監である伊藤博文を暗殺した人物である。
安は教会の教理とは直接関係ありませんが、韓国や統一教会(特に韓国側)が捏造歴史観の押し付けで何かと関連づけてきた人物なので、少し触れておきます
それにしても、何かと政治的に利用される安。2014年3月に行われた中韓首脳会談では、朴槿恵(前)大統領が中国に、安重根記念館が建設されたことに謝意を表し、習近平国家主席は「両国国民間の重要な絆になる」と述べるなど、もはや中韓共闘の反日シンボルになってしまった。そして、菅義緯(当時)官房長官が「犯罪者」と指摘すると、韓国外務省報道官が「常識以下の言動で嘆きを禁じ得ない」と言い放つなど、安重根は韓国で神聖不可侵な存在だ。



ところで、いったい本人の意思はいかばかりだろうか。以下、分かりやすい記事を見つけたので、それぞれから抜粋しておきます。


【ニッポンの新常識】英雄視する前に韓国人が知っておくべき安重根の真実 K・ギルバート氏  (1/2ページ) - 政治・社会 - ZAKZAK  より


少し調べてみると、安重根は反日思想の持ち主ではないことが分かる。彼は平和を望んだクリスチャンであり、日本という国や明治天皇に敬意と感謝の念を持っていた。日韓問わず安重根を「反日の象徴」として捉えている人は、史実を調べていない。


例えば、安重根は暗殺事件の裁判で、日本が、大韓帝国(=李氏朝鮮が1897年から1910年まで使っていた国号)の皇太子、李垠(イ・ウン)の教育に尽力したことに触れ、国民が感謝していると述べている。日清・日露戦争を通じて、日本が朝鮮半島を含む東洋の平和を守ったことも評価している。明治天皇が韓国の独立をはかり、平和の維持に努めたことも理解している。

 問題は、安重根が、伊藤のことを「明治天皇の意向に反した政策を朝鮮半島で行う逆臣」と思い込んだ点にある。現実には、伊藤こそが李垠を日本に招いて教育した張本人である。しかも日韓併合反対派の中心人物だった。

 3発の銃弾を受けた後も、伊藤にはしばらく意識があり、犯人が朝鮮人であることを聞くと「バカな奴だ」とつぶやいた。日韓併合に反対ならば、伊藤暗殺は犯しうる最大の過ちだった。



これが真相に最も近いと思ってます。簡単に言うと


●安重根は反日でなく皇室に尊敬の念を抱いていた
●西洋を排除し、東洋平和のために日中韓が手を結ぶべきと考えていた
●伊藤博文を暗殺すれば、明治天皇の善意で韓国が救われると考えていた


常識以下なのは韓国のほうです。韓国は安の意思を読み違えているどころか書き換えている。伊藤博文を暗殺すれば、満州国も大東亜共栄圏も出来ると信じた安。ところが今では安重根が崇拝していた天皇家を韓国人が侮蔑している。
このように我々は全ての歴史を再検証しなければならない時期にきている。
安重根の銅像を建立するなら「尊敬する人・明治天皇」「天皇制賛美者」と明記させるべきではなかろうか。


韓国人が知らぬ真実 安重根は反日でなく皇室に尊敬の念を抱いた - ライブドアニュース

以下、週刊ポスト2014年4月25日号より


安が誤解していたのは、それだけではない。当時、軍部出身者を中心とする日韓併合賛成派に対し、伊藤博文は保護国化して一時的に統治するだけで十分として、併合には反対していた。韓国を成長させたうえで、韓国人による自立した国家をつくろうとしていたのである。

 こういっても韓国人は信じないだろうが、新渡戸稲造の『偉人群像』には、伊藤が語った言葉としてこう記されている。

「君、朝鮮人はえらいよ。この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本より遥か以上であった時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営できない理由はない。才能においては決してお互いに劣ることはないのだ」

 このように、伊藤は朝鮮人を高く評価し、併合には反対だと主張していた。安は大日本帝国を代表する存在である伊藤を排除すれば、明治天皇の善意により、韓国は救われると考えた。

 そして、日清韓の連帯を唱え、日韓併合に反対していた伊藤を暗殺してしまったために、その後、山県有朋の主導により日韓は併合への道を突き進むことになった。残念ながら、これが現実である。

「安は逮捕され、検察官の尋問を受けたとき、『これで日本の協力のもとで韓国は独立できる』と供述しています。その後、旅順監獄に収監されてから、自分の考えが甘く、時代認識に欠けていたことを反省している。しかし、明治天皇は東洋の平和と韓国の独立を願っていると最後まで信じ続けていた」(前出・斎藤氏)

 まさか自分の犯した行為が、意図とはまったく逆の方向に進む引き金になるとは、安重根も思いも寄らなかったに違いない。



ちなみに「安重根の記念碑」が宮城県の大林寺にありますが、看守であった千葉十七は明治18年宮城県生まれ。彼がこの碑のある大林寺に眠っているところから、安との友情を顕す碑なのだそうです。
安重根は事実を正しく認識しておらず、伊藤博文に恨みを持ったのは様々な誤解からでした。無知な愛国者。逮捕された後、自分が誤解をしていたと気付いた安は獄中で伊藤公やその家族にお詫びしたいと心情を吐露。千葉もそんな安に筆や墨、紙などを差し入れて、できる範囲の処遇をしたそうです。
明治43年(1910年)2月14日に安は死刑判決を受けますが、罪を認めていた彼は控訴はせず、3月26日に処刑の日を迎えます。
『日韓2000年の真実』(名越 二荒之助)