ライコウのブログ

あるキリスト者の個人ブログです。
二極化された世界構図を前に、我々人類は、いかに神様と向き合っていくべきか、思索を深めるきっかけになることを願って発信します。

目糞は鼻糞を笑ってはいけない

ルカによる福音書6章41~42節


なぜ、兄弟の目にある塵を見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟に向かって、兄弟よ、あなたの目にある塵を取らせてください、と言えようか。偽善者よ、先ず自分の目から梁を取り除けるるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にある塵を取り除ける事ができるだろう。


岬キリスト教会さんより引用します。


平行記事のマタイによる福音書では、イエス様の「人を裁くな」という御言が、もう少し詳しく記されています…「あなたが人を裁く秤で、あなたも裁かれます」です。人は、生まれながら裁きの秤を持っているのです…しかし、その秤は公平さを欠いている物です…そこでイエス様は、「人を裁くな。何故、兄弟の目にある塵を見ながら、自分の目にある梁を認めないのか?」と言われたのでした。


塵が目に入ったら、痛いし気になるので、何をさておいても取ろうとします。人を裁くのも、これに似ていて、人の罪や欠点、弱点が、一旦、気になると気になってしょうがなくなってしまいます。そして盆栽の剪定のように切ろうとするのです。時に枯らして(心を殺して)しまいます…持ち主が、盆栽全体の枝の成長を考えて枝を残しているのに、他人が切って枯らしてしまっては大変です。
~引用おわり~


ファンからの苦言のような形で捉えてもらえれば幸いです。


人間、年を取ると思考が固まってしまって、難しいとは思いますが、ここサンクチュアリでも、組織愛というか、旦那への愛情が強すぎて、教理論争を飛び越えて、同じカテゴリ内でも、取るに足らないことで、兄弟を裁きにかかっている人もいる。
その点、イエス様の教えが根付いている既成教会では、妙な雰囲気はあまり感じられず、穏やかさと落ち着きを知るのですが、もう少しだけ引用します。


聖書は、ここで「罪を犯した人」を「兄弟」と言っています。兄弟ですから、その人と自分の親は同じです。ここで、親というのは「神さま」です。イエス様は、「神は、公平な秤、人を生かす愛の秤を持っている、だから神に先走って裁いてはならない」と言われたのでした。


今、教会では、大きな動きがありますが、どんな人がおられようが、来ようが、広い心で受け止めて行くことが、キリスト者の道だと思っています。
結局、私も、立ち位置を確保しただけの人間で、先人の苦難のことを思えば、何の条件もなく、ただ突っ立っているだけ。それでも、人としての道だけは、踏み外せまいと、それだけは心がけていきたいと思います。