ライコウのブログ

あるキリスト者の個人ブログです。
二極化された世界構図を前に、我々人類は、いかに神様と向き合っていくべきか、思索を深めるきっかけになることを願って発信します。

沈黙

どんなことであれ、問題が何であるかを知るには、原点を目指し、源流を溯ることが必要になってくると思います。
私は歴史を、自分なりに咀嚼し直し、いろいろ紐解いていく作業をしていますが、その中で、やがて、日本にも、キリスト教が関わってくる時代。
特に、禁教令が敷かれた、江戸から明治初期に至るまでの、キリスト者にとっては、非常に厳しい時代ですが、正直、この部分になると、とても辛く、切なくなってきます。


このときの、弾圧というのは、戦国武将がそれぞれの事情を抱えながら、生き残りと未来を掛け、お互い刃を向け合う構図とは全くベクトルが異なる、むしろ虐殺に近いものさえ感じるのであり、自分だったら、この時代、どうだったであろうかとか、思考停止にさえなります。


Wikipediaより、「五島崩れ」から引用してみます。


牢屋の窄殉教事件
明治元年9月29日(1868年11月12日)に久賀島ではキリシタン約200人が松ヶ浦の大開(おおびらき)の牢屋に入れられ、石抱や水責めなどの拷問を受けた。キリシタンたちが収監されたのは、わずか6坪ほどの狭い牢で、死亡者42名(うち、出牢後の死亡者は3名)を出した。
窮屈な牢屋の中は、土間のままで厚い板で中央を区切り男牢と女牢とに区分けされた。押し込められた200人は立錐の余地もなく、せり上がって足が床に着かず、身動きできないまま死んでいき、放置された死体は腐乱してウジが湧いた。牢に入れて3日後には、牢の中央に1本の丸太を入れて片側の人をできるだけ壁に寄せて立たせ、片方の土間に交代で座らせて少しずつ休ませるようになった。与えられた食べ物は朝夕にサツマイモを一切れずつで、ひもじさに泣き狂う子供に顔をかきむしられて血まみれになった母親もいた。体力の無い老人や子供から死んでいき、最初に死んだのは79歳の助市だった。5歳の政五郎は水を求めて「アップ(水)、アップ」と言いながら渇き死にした。


牢屋の窄殉教記念教会にある碑には、
「十三歳のドミニカたせはウジに腹部を食い破られて死亡した」
「十歳のマリアたきは熱病に冒されて髪の毛は落ち、それでも『パライゾ、パライゾ、わたしはパライゾ(天国)に行きます』といって息を引き取った」
「その妹マリアさもは七歳の幼女であったが、『イエズス様の五つのおん傷に祈ります』と言い残して亡くなった」
など、殉教した者たちの様子が書かれている。役人は信徒たちに拷問を加えて改宗を迫り、仏僧たちは鈴を鳴らして、経を唱えながら牢の周囲を回った。
ある晩、捕えられなかった信徒2、3人が伝馬船で牢屋に近づき、マリアのメダイを牢屋に投げ込んだ。メダイを受け取ったキリシタンたちは「我等にサンタ・マリアのご加護あり」と歓喜したという。
ペトロ中村友吉は、父母とともに牢に入れられ、母はそこで他の信徒たちに踏みつぶされて亡くなった。葬ってよいと許可が出たが、家は荒らされ、鍬も農具も盗まれて掘る道具が無かったため、手で穴を掘って母の亡骸を埋葬した。改葬の時、掘り返してみると、地下70センチの所に2本の骨が残っていたので。それを牢屋の窄へ納めた。


引用おわり


昨年、関係者には悲願だった、高山右近の列福式があり、身内も参加してまいりましたが、私はこのあたりから掘り進め、偉大な先人に敬意を払いつつ、未来を模索していこうかと思ってます。


皆さまには、遠藤周作の同名小説の映画なども、どうでしょうか。
同じ人間が、ここまでやるのか、というような手段で、パードレ(司祭)を転ばせるため、精神を、追い詰めていく。



映画『沈黙-サイレンス-』本予告

銃と刀と私 必殺編

地球規模で、視野を広げて見てみると、グローバリストによる、国家が個人を管理する体制は整いつつあり、教育から何もかも、根幹に係わるものまで全て、管理下に治めようとする、悪魔の思想家たちの存在は無視できなくなっています。
そして最後の砦、銃器さえ取り上げてしまえば、ある意味、完結。
決して体制には、逆らうことができなくなってしまうという顛末を迎えるのです。


人間を育てるのは、決して国家などというものではなく、家庭であったり、友であったり、そういう繋がりであり、そこには、まぎれも無く、神様が臨在されていることを確信する方も、多いのではないでしょうか。
こういう、当たり前のことが、お花畑の平和論者には分かっておらず、まず銃器の所持を無くせば、とりあえず平和に一歩近づけたみたいな勘違いをしてしまう。
こうなると、もう敵の思う壺で、その精神域から抜け出せなくなってしまう。


これは、敵がどんな相手か分かっていない、無知から来るものですが、さらに言うと、核兵器の所持、不所持も、これと似た側面を持っています。
世界一斉、せーので放棄した瞬間、速攻で侵略完了。
何の話か、お分かりですよね。
共産主義が、約束を守る国でしょうか?
気づいたら自由の戦士の武具だけ取り上げられていた・・・という顛末。
武力を背景にした外交で国家は蹂躙され、敵国のいいなり、子々孫々、奴隷のごとき屈辱の生活を約束します。
だから、平和論者の掲げる理想など、なんの興味も無いし、意味も無い。
この世には、クソみたいな現実が横たわっていることを知るしかないのです。


昔、「必殺仕置屋家業」というTV番組があり、ある評論家が書いた記事が記憶に残っています。
仕置人、市松(沖雅也)の武具は、竹串。
扱う人間によって、竹串でさえ、殺しの道具になってしまう。
本当に恐ろしいのは、武器がどうのこうのの問題じゃない、それを扱う人間の殺意。
べつに市松を非難した記事ではなく、人間の内面を突いた論評でした。


グローバリストの言う論理など、竹串を規制しようとしているようなもので、本質は、竹串が恐ろしいのではなく、恐ろしいのは、それを扱う人間の心であり、思想性。


銃器の件で、2代王はいち早く気付かれ、警鐘を鳴らしておられますので、多くの方が傾聴されたらいいと思いますが、どうもこうも、家庭連合のカテゴリでは、写真ごときで、旦那を愚弄する輩が出てくる始末。
しかし、この事実をもって、家庭連合は、仮想世界、お花畑の住人であることが判明、完全に敵の手中に落ちたと判断できます。
悪魔側に組する抵抗勢力としての認識に移行したのでした。


そして、私にとっては、旦那を愚弄されただけの問題じゃない、何か大切なものを奪われようとしているところで、颯爽と伴内のおっさんが降臨、この悪魔人たちの「銃器丸腰大作戦」に反旗を翻すべく、古いヒーローも叩き起こすはめになりましたが、少しシリーズ化してます。


素晴らしいのがあったので、貼っておきます。

平和警察平和軍 文亨進二代王様夫妻&隊員(ターミネーター2 )