ライコウのブログ

あるキリスト者の個人ブログです。
二極化された世界構図を前に、我々人類は、いかに神様と向き合っていくべきか、思索を深めるきっかけになることを願って発信します。

沈没を破って

沈没を破って一時浮上、そして、潜航モードへ


かなり間が空いてしまいました。そもそも、ストレス発散も兼ねて始めたつもりでしたが、あるところで、質の問題に落胆したり、ネットの限界も感じたりと、いつの間にか、逆にストレスを溜め込む結果に発展してしまったので、いったんネットそのものから離脱し、沈没生活を満喫。


おかげで、いろんな作品が仕上がった。
丸ノコ、チェンソー、インパクトドライバーをメインツールに、材木を担ぎながら庭作業。パーゴラ、ガーデンシェッド、ベンチ、ガーデンテーブル、その他いろいろ完成。
昔は絵画や模型など、いろんなことをしてましたが、今は、こういう実用的なものの方に、遣り甲斐がある。


もともとは、ある霊人との交流の中、ゆくゆくは仏像でも彫るようなことを宣言した手前、体馴らしに始めたDIYだったのですが、なかなか自身の成長が芳しくなく、心を彫りこむことへのハードルの高さなどに気後れしたりしてるうちに、むしろ工作技術のほうが上がってしまって、どうも妙な方向になってしまった。


関心も、彫刻など芸術活動より、ブッシュクラフトやサバイバルに移り、都会生活者からすれば、贅沢に映るでしょうが、何年か前にゴットから土地を託されたのを機に、ビオトープの思想を取り入れ、小さな庭に、大自然の循環を縮小させたような世界を創り出す作業が大好きになり、もう止められなくなってしまった。
しかし、神様の創造の喜びにも繋がって、感じる世界は大きいのでした。
数年前には、「ホーホケキョ」とウグイスが巣を掛け、今年はホタルが迷い込んできたり、トカゲが遊び回り、小さなヤモリも確認できたので、苦労の甲斐はあった。


これも数年前になりますが、山で熊に遭遇して以来、登山には気が引けてしまって、結局、庭作業に方向が向いてしまったが、男というのは、結構いろんなことにチャレンジしたがるもので、時間さえあれば、ミツバチの飼育や、サバイバルのため、マムシ狩りも身につけておきたいと、想像はしているところ。


それにしても、自衛隊の友人は、いろんなことを教えてくれる。
青大将なんて、臭くて食えんが、こいつなら、結構いけると聞いた。
おそらく、獲物を締め付けて丸呑みするタイプは、骨もしっかりしていて不味いが、毒で殺すタイプは、軟骨なので、けっこういけるのかもしれない。
問題は、捕獲時の毒牙対策だけで、そうなると、もはや毒蛇以外には関心が薄れ、全てが食料に思えてくる。
カラスだって、臭くて食えんが、脳みそは結構いけるらしい。
デンゼルワシントンも、ある映画の中で「ディナー」と言っていた。



今夜もEAT IT/アル・ヤンコビック


私は武道をやっていないので、どこかの猛者のように、熊との格闘は無理。
会社の先輩の身内は、猟銃持って、熊、鹿、猪を追い掛け回しているようですが、仕事はIT関係らしく、なんかすげー、そんな人もいるんだ・・と思う、今日このごろでした。


それでも、いつかは、芸術活動に舞い戻ってきたいと思っている自分がいる。

撃沈2

その昔、プロテスタント教会に通っていた時期がありまして、牧師さまに教わったことがあります。
旧約聖書に出てくるバアル神など、当時の人々は、預言者が現れるまでは、その存在こそが唯一絶対の神様であると信じ、決して、カルトな悪魔崇拝者たちが成すように、「ははあ、親愛なるサタンさま~~」と、頭を垂れ、敬拝を捧げていたわけではありませんでした。
おそらく、現在のキリスト者と同じような、礼拝に近い感覚であったと思われます。


たとえ悪魔の頭であったとしても、それを知らない人々にとっては、あくまで、絶対者であり、神様であり、生贄など捧げれば、五穀豊穣などの恵みさえ受け、人々の生活の中心に君臨しつづけるのでした。


さて、そういう事情を知るものとしては、この「神様」という言葉は、大変扱いづらいもので、身内以外では、あまり使いたくありません。
どのようにでも解釈されてしまいますから。
そして、過剰に使用すると、非クリスチャンから、こう言われるのがオチかもしれません。
「おまえんとこの神様は、強え~~か」
ドラゴンボールの世界が展開します。


多少、意味合いは違いますが、かつて、森喜朗内閣総理大臣(2000年当時)が、神の国発言で、内閣退陣に追い込まれ、「神の国解散」と呼ぶことが定着してしまった経緯も存在し、突っ込んで考えると、本当に厄介。
(挨拶文の一部だけを意図的に抜き出して曲解する、マスコミの異常さは常に際立つ)


上記のことを踏まえ、多少警戒しながら、外向きに書いてきたつもりですが、そこで、これは、あくまで個人的な感覚からですが、そういうキリスト教文化が浸透しきれていない、日本の事情に鑑み、さらに、歴史マニアの私の感覚からすると、当時、信長や秀吉に仕えていた配下が、親しみと大いなる尊敬を込めて放っていた言葉、「親方さま」「親父(オヤジ)殿」という尊称は、神様を表わすのに、非常に、しっくり来るものがあり、あまり深い思慮もなく、私も使用させてもらっていましたが、個人的には呼び名がどうだろうが、あまり関心がありません。
ただ、発信もとはどこか分かりませんが、気になる方がおられるようで、そこは謙虚に反省し、改めようと考えているところですが、このブログを読まないという選択肢も、手かと思いますので、お知らせします。
たぶん、同じお仲間なら「神さま」で、問題ないのでしょうが。


こういう件があったので、少し方向は変えていきたいと思います。

撃沈

教会関係の内輪話です。
ご指摘があったので、そのことに少し触れます。
以前、書きましたが、このブログは外向きに発信しており、当初から、あまり教会員どうしの交流を想定していなかったため、ぼかす意味も含め、表現も多少、故意に変換してきました。


例えば、亨進さま
これは、自身の、アジア人特有のというか、古しき価値観からくるものなのですが、古来より、存命中の尊崇なる偉人に対しては、礼を失しないよう、決して、その名を直接的に表現してはならないと教えられ、通常、役職位名であったり、出身地名であったり、そういうところから呼称する場合が多く、そんなところの話です。


大河ドラマ「真田丸」は、ご存知でしょうか。
元服をすませると諱(いみな)と、烏帽子親によって仮名(けみょう)が与えられます。「真田」が苗字、「源次郎」が仮名、「信繁」が諱(いみな)


あの大将、織田信長に関しても、「信長様」と諱(いみな)で呼ぶことは大変失礼なことでした。
官位を持っていない武将の場合、仮名(けみょう)で呼ばれることが一般的で、諱で呼ばれることはまずなく、特に位の高い相手を諱で呼ぶことは失礼に当たり、よって、「信長様」と呼ぶことはまずありえません。
石田三成も、時代考証のしっかりした大河ドラマなどでは「治部少(じぶのしょう)」や「治部殿」と官途(かんど)で呼ばれていたし、やはり諱で呼ばれることはありませんでした。


三国誌など、中国の歴史に関心のある方は、さらによくご存知かと思いますが、諸葛亮孔明というのは日本人が考えた呼び名で、正しくは諸葛孔明。
直接姓+名で呼ぶことは失礼に当たります。
 姓:諸葛
 名:亮
 字:孔明


さらに、私が時々使用しておりました、「旦那」=檀那(だんな)という言葉。
本来は仏教用語らしいですが、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われているところから使用しましたが、もしかして、ニセ時代劇などの汚染された価値観で、とらえられてしまったか。


婉曲的表現で敬意を表していたのですが、たしかに現代的価値観からすると、「ペンシルバニアの旦那」では、そうとう俗っぽく映ってしまうので、「2代王」でよかったのかもしれませんが、そうなると、今度は一般の方が「なんじゃそれ~」みたいになるし、実は、私にとって大変悩ましい問題だったのです。
ネット世界では、実際のところ、「亨進様、誰それ~」の世界で、書いていると思ってますし、外向けというのは、そういうこと。


ともあれ、時は現代、反省も踏まえて、時流にあわせていこうと思います。
続編があります。


詳しくは下記を。ここからの引用です。