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葛根廟事件 ~凄惨な「共産主義者による虐殺」~

橋本琴絵さんの記事が大きく目についたので、リンクさせて頂きます。


終戦記念日を前に ~凄惨な「共産主義者による虐殺」を忘れるな
この時期になると、毎年に様に繰り返される「あの戦争を忘れるな」というフレーズ。しかし、「忘れるな」という言葉の中に日本自身そして原爆投下を行った米国を攻めるニュアンスがあっても、終戦直後に共産主義者が無辜の日本人に対して行った虐殺についてはほとんど言及されない。8月6日の広島原爆投下、同9日の長崎原爆投下を迎えるにあたって、私たちが忘れてはならない「共産主義者による虐殺」とは―


葛根廟事件(かっこんびょうじけん)は、1945年8月14日、満洲国興安総省の葛根廟付近において日本人避難民千数百人(一説には1,300名)が攻撃を受け、1,000名以上が虐殺され、あるいは自決した事件。葛根廟駅事件ともいう。避難民の約9割以上が女性や子供であった。

ソ連軍が去った後に、生存者も自決したり、その後の避難の途上で中国人暴民やソ連兵などの襲撃を再び受けるなどして、日本帰還を目指す多くの日本人居留民が犠牲となった。はっきり確認された生存者は百十数名、後に発見された残留孤児を入れても百数十名に過ぎないという。


「葛根廟事件」の悲劇


 現在の内モンゴルにあった葛根廟という地域で、日本人女性と小学生の集団に対してソ連軍は総攻撃を始めた。逃げ惑う子供たちを戦車でひき殺し、その死体が戦車のキャタピラに幾重にもはさまり、未就学児でさえ頭を銃で撃ち抜いた。母親の死体に寄添って泣く幼児を見つけると、これをその場で射殺することなく、走らせるように促してから射殺するゲームをさえ楽しんだ。


 ここでも猟奇的な殺人が数多く行われ、日本人妊婦の体内に手榴弾を入れて爆発させ、内臓や胎児の破片が飛び散る様子に共産主義者たちは歓声を上げて喜んだ。生き残った女性達は連れ去られ、繰り返される強姦によって体力がなくなると近隣の建物の中に閉じ込められ、生きたまま焼却処分された。また、かろうじて処刑されることを免れた日本人小学生たちは、地元民らの奴隷として売買され、それが今日でいう「中国残留孤児」となった。


 こうした事件は葛根廟だけでとどまらず、満州各地で発生した。8月17日の東京荏原開拓団虐殺事件や、8月25日の仁義佛立講開拓団虐殺事件である。これらは終戦記念日である8月15日を過ぎても継続され、満州各地で女性と児童の虐殺を楽しむ共産主義者らの姿が、奇跡的に生還した人々の証言によって記録されている。


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≪駅で京城行きの列車を何日も待っていると、ソ連軍がやってきた。私はこの駅である夫婦と出会い、知り合っていた。夫は鉱山技師であり、妻とは昭和19年に結婚したばかりだという。妻は19才で若く健康的だった。

 ある時、ソ連兵の一団がやってきて私たちに近づいてきた。兵士の一人が妻の手を引っ張り、どこかに連れて行こうとした。それをみた夫がなんとか阻止を試みると、ソ連兵は拳銃で夫の頭をすぐに撃ちぬいた。夫の頭からは脳がボロボロと出てきて、その場に倒れこんで絶命した。妻はそのまま駅舎の方に連れていかれた。向こうの方ではソ連兵に連れていかれることを泣き叫んでいやがった女性が、銃剣を股に突き刺されている光景を目にしたからか、妻は声を上げずそのまま連れていかれた。

 一晩経って朝方に妻が帰ってきた。その姿は幽鬼のようであり、股からは血が流れ続け、衣類は半分ほど引きちぎれて乳房が見えていたが、妻の目は虚ろであり、宙をみていた。口は半開きであり、昨日まで綺麗に生えそろっていた前歯は全部なかった。妻は何も話せない状態になっていた。

 私は夫の遺品から、内地にある実家の住所が書かれた紙片をみつけたため、この妻を不憫に思って送り届けようと思った。それからようやく朝鮮から船に乗って内地に着き、そこから列車で某県内にある夫の実家にたどり着いた。出迎えた夫の母親に、息子の小指と僅かながら持ち出すことが出来た遺品のキセルを差し出すと、母親は気丈にも泣き崩れずに私に御礼をいった。しかし、半狂乱となって話すことが出来なくなった妻をじっとみると、やはり耐え切れずその場でしゃがみこんで泣き出した。

 翌年、その母親からもらった手紙には、妻はその後お腹が大きくなり、堕胎することも出来ないため、そのままでいると、緑色の肉の塊を産み落とし、その緑色の塊は産声をあげることもなくそのまま死に、妻もその塊を産んだ三日後に息を引き取ったとあった≫


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「アメリカ被害の強調」と「共産主義の被害の隠蔽」


以上が、8月9日以降に起きた共産主義の被害である。私が最も重視するのが、2発の原爆以上の被害者がいるにもかかわらず、冒頭で述べた通りその実態が教育やメディアでこの戦後76年間も、無視され続けてきたことである。ここに、「アメリカの被害の強調」と「共産主義の被害の隠蔽」という対照性が目立つ。


 広島では毎年原爆被害を後世に語り継ぐ平和式典が執り行われているが、ここで非難の対象とされるのはアメリカやイギリスやフランスの核爆弾であって、ソ連や中国の核爆弾ではない。何故ならば、共産主義者にとってアメリカやイギリスの核実験は戦争の象徴でも、共産圏の核実験は「平和の光」であると認識されているからだ。


 このいびつな認知が、「日本人犠牲者」にも適用されているのである。すなわち、アメリカの民間人虐殺は悪であるが、共産主義者による日本人虐殺は悪とは見なさないとする方針だ。


橋本 琴絵(はしもと ことえ)昭和63年(1988)、広島県尾道市生まれ。平成23年(2011)、九州大学卒業。英バッキンガムシャー・ニュー大学修了。広島県呉市竹原市豊田郡(江田島市東広島市三原市尾道市の一部)衆議院議員選出第五区より立候補。日本会議会員。



「アメリカ被害の強調」と「共産主義の被害の隠蔽」は、同感します。
沖縄を見ればよくわかります。
デニーの反米、反基地しか目につかず、共産中国に寄り添ってる姿を見れば。




これらが残留孤児が生まれた背景。この悲劇さえ中国は利用している。